葉桜、煮え切らない匂い


葉桜は昔からすきじゃなくて、満開をみたあと徐々に時間をかけて花が散っていくのも、葉っぱと花が半々くらいになった状態も、なんだか虚しいよなーと思っていた。3月の頭に引越しをして、桜が通り一面に咲く街に住んでいるんだけど、桜をみていても「綺麗だなー」と思うだけで、写真を撮る人たちを見つめながら、写真を撮る気にならなかった。今年は桜が咲くの早いんでしょうかね、分かんないけど、もう葉っぱがつき始めていますね。その桜をみた途端に「これだな」と思って、綺麗だなーと心の底から感じて、満開だった頃より気分がいい。今年だけの気分の問題なんだろうな。はやく緑がみたいのかもしれない。最近は花をみても心が洗われることが少なくて、緑が沢山あるほうが嬉しくなる。暑いのは苦手だけどはやく5月とかになって、新緑とやらをみたいな。


きょうはみんなが入社式で、わたしは学生という身分を持っているだけの、なんでもない人間を1年間繰り返す猶予を奪いとり、のうのうと生きています。日々なにもしていないから、空虚なまま1年が過ぎ去って、なにかになれるとも思わないし漠然となにかをしたいと思い続けて終わるんだろうなという予感がある。面倒くさがりもここまでくると恐ろしいものがあって、有意義な可能性があるものを無為にしてしまう。わたしはそんなわたしのことがすきじゃない。毎日「がんばれ」だけのくだらない言葉を自分に言い聞かせてさっさと眠る日々は、どんどん擦り減らされている感覚になる。こんなに燻っているのなら強情にならずに社会に出たほうがよかったんだろうなと思う。人生は大学生で終わるわけじゃないしなあ。最近はそんなふうに改めました。でも、遊んで暮らしたいと思っているのに遊べないという部分もあるはずだから、もしかして遊べたら考えを改めることも無かったかもしれないね。


最近はずっと頭痛がなくて快適に暮らしていたんだけど、なんだかまた頭痛が出てきて憂鬱です。楽しいことがある/ないとか、家が綺麗/綺麗じゃないとか、その他の体調がいい/悪いとか、気圧の問題じゃなく、突如頭が痛くなったり快適に暮らせたりして、薬を飲めば治るからまあ別にいいんだけど、頭が締め付けられる感じは何年頭痛と付き合っても嫌だね。


同期が4年間の大学生活とお別れをするための思い出巡りのようなものを何度かして、わたしも混ぜてもらったんだけど、特になにも感じていなかったのに今になって結構精神にダメージを負っていたんじゃないかと思い始めてきた。基本的にぼんやり生きていて、あまり他人たちからなにかを受けることが少ないんだけど、もしかしたら「ちょっと嫌だなー」くらいにずっと思っていたかもしれない。自分のことなのに自分で曖昧だし、いつのまにか思考する速度もゆるやかになりすぎていて、考えてから言葉を出すまでに何日かかかることもある。周りにいる人間たちはみんなわたしがかなり後になって「あの時のあの話ですけど」とか言い始めてもちゃんと会話や議論をしてくれて助かる。


引越してからずっとカーテンを買っていなくて、純粋に面倒だったし別になくても生活できていたからなんだけど、ようやくカーテンを買って窓を開けてみたらそよそよと風が入ってきて、膨らむ白いカーテンを見ながらぼんやり死にたいなーと思って怖かった。最近はずっとマスクをつけて外を歩いているから、季節の匂いが嗅げていなくて、窓を開けたらブワっと春の匂いが入ってきた所為かもしれないけど、わたしはあらゆる物事に鈍感に生きているので、真偽のほどは分からない。とにかくいつまで経っても生活を送るだけで手一杯で、がんばりたいと思っていることはご時世的になかなか出来るものではなく、ぼんやりしているのは嫌いじゃないけどぼんやりしすぎている。ちょうど良くすべてが噛み合うといいのにな。そのための努力は惜しまないと言いたいところですが、なんだかなあ。ずっと煮え切らないままいるのは自分のせいなんだけど、そのことに対しても煮え切らないという、煮え切らないの無限ループにいる感じがする。煮え切らないとぼんやりはかなり違いますが。


今ふと思ったけど、ぼんやり生きているように見えていた同期たちが、みんなきちんと就活をして今日から社会人になるという現実を上手く処理できていないだけかもしれない。そうだとしたら惨めすぎる。22年間なにをしてきたでもなく、なにを頑張ったでもないが、生きていくのはとても大変なので頑張りたいな。この先にいいことがあるとかは今必要ではないので、直近の楽しみやいいことでがんばって生きていきたい。そういう根幹が変わらないと煮え切らないのも惨めに感じるのもいつまで経ってもそのままなんだろうな。


なんだか暗い内容だし死にたいなーとか思っているけど精神は至って健康で、ぼんやりしすぎて、嫌なことを積み重ねてもまあどうとでもなるだろうなと思っています。悪い癖だ。