死同然のロボットではない、曝け出す、記録のフィクション化

基本的に毎日勉強しているんだけど、週に一度か二度、勉強できるけどまったくしたくない日というのが訪れる。今日はべつにそんなふうでもなかったけれど、なんとなくそんな日になってしまいそうだ。そういう日はベースを弾いたりぼんやり音楽を聞いて「かっけー」とか言ってみたり塗り絵をしたり昼間からお酒飲んで読書したりして過ごす。わたしが思うにやはり五十嵐とカート・コバーンは似ていて、生まれ変わるなら絶対にその二人になりたい。薄暗くて引きこもりの性質があって、お酒や煙草に埋もれがち、音楽をやっていて歌う・叫ぶ・ギターをかき鳴らすなどする、曲をつくる、そういう共通点はもちろん、わたしはばかなので具体的に「こう考える。理由はこう」とか言えないんだけど、感覚的に似ている。格好よすぎて、ほんと、勘弁してくれという気持ちになる日がある。今日がそれだった。人間誰でも不可侵の領域を持っていると思うけど、曝け出して格好いいの、ずるい。そんな不可侵の領域なんてまやかしで、本当はなんにもないのかもしれない。


しばらく家の中でも気分を落としたくないと思って香水をつけたり指輪をつけたりお洒落をしたり化粧をしたりしていたんだけど、虚しくなってやめた。こういうところが向いてない。なにに向いてないのか自分でも分からないけれど、時々無性に「向いてねー」と思う。頭を空っぽにして楽しめることがすきで、難しいことはあまりすきじゃない。幼い頃からの性質だと気づいたのはこの文章を打ちながらなので、つくづく「向いてねー」なのが顕だ。難しいこと考えるのがすきな人というのは一定数いるはずだし、そういう人たちが頑張ってくれればいい。逆にそういう人たちは頭空っぽにして楽しむの苦手かもしれないし、それはわたしが心ゆくまでやっておくから安心しなさいというか、そんな感じ。


わたしの中には朝から感傷的な気分の日というのが存在して、勉強できるけどまったくしたくない日というのはそういう日なのかもしれない。ところでベースを練習しながら思いついたけれど、わたしは大学生のうちに大学生のわたしの記録を創作物に還元した方がいい気がしている。不良が出てきて暴れるファンタジーのような夢物語を書いている場合ではない。キャパシティが狭小なので恐らく両立というものができない。これは最近ついに認めたことなんだけれど、わたしのキャパシティはびっくりするほど狭小だ。物事の単純な同時進行とか、仕事の効率化とか、サークルとアルバイトをこなすとか、そういうことはできるんだけれど、サークル2つどちらも全力でやるとか、サークルとアルバイトと授業を天秤にかけずにすべて頑張るとか、そういうことができない。自分で自分に「まぬけ」と言ってしまうくらいすっぽり抜け落ちる。どれくらい重要なのか考えられない。病気なんだろうな。


キャパシティが狭小な話は本当にどうでもいいんだけど、恐らく両立ができないので、夢物語を捨て去ってわたしの軌跡とやらを書いた方がいいのかなと今日考えていた。わたしの軌跡とやらはすぐに書き終わる気がする。せっかくいろいろ詳しくなったし、周りにいる変な人たちすべてを書きたい衝動が収まらない。フィクションにするけれど、のっぺりした平な物語になるんだろうなと思う。特別なことはなにもない、そういうやつが書きたい。必然的にわたしの送った自堕落でどうにも救いのない生活を曝け出すことになるので、結局のところ、似たようなものかもしれないと思った。フィクションだから思った・考えたことを書けばいいわけであって、出来事まで似せる必要はないと言い聞かせてちょっと元気がでる。最近のわたしの生活を彩るものは音楽しかないから、きっと音楽のことばかり書いてしまう、趣味丸出しの、気持ち悪い創作物になってしまうんだろうな。それでいいや。


早く日常に戻ってきてほしい。頭がおかしくなる。恋人は鬱気味で、意味もなく朝まで起きているらしい。わたしは仲のよい人間と話をすることで人生に関する気づきを得る人間なので、仲のよい人間との会話がないとなにも考えないし、死同然だ。毎日決まった時間に起きて決まった量の勉強をして決まった時間に寝るロボットにでもなった気分だ。こんな生活で頭をおかしくしない人間がいるんだったら、めちゃくちゃ稀有だね。


以上